このエジプトピラミッド切れ気味一人旅を振り返って






コロナが落ち着き、やっと海外に行けるようになり、最初に選んだ国がエジプトだった。

ワクチンパスポートがいらない国とか、マイルで行ける国とか、条件は色々あったけれど、別に嫌々エジプトにしたわけではなく、好きでエジプトに行ったのだ。






ピラミッドは一度は見ておくべきだとは思っていたけれど、一度エジプトへ行こうと思ったら、大好きだったクレオパトラや、羨ましかったナイル川クルーズ、パピルスのお土産とか、子供の頃の夢が色々と出てきてしまい、それなりに期待してしまった。






子供の頃の夢は子供の夢である。






私はもう大人であり、行こうと思えばどこでも行けるわけで、それなのに、旅行に慣れた後もなおエジプトには行こうと思えず、ましてや、飛行機代を払ってまで行こうなどとは決して思っていなかった。私にとってエジプトは、そんな国に変わっていた。マイルの無料旅行だからこそ行く気になったのだ。

年を越し父上の誕生日を過ごすのにふさわしい場所という事に重点を置いてしまい、元旦にピラミッドなんて神秘的でいいじゃないかなんて思ってしまったけれど、やっぱり大人の私が行く場所としては不向きだったと思う。






では、行った事を本気で後悔しているかと聞かれたら、全くそんな事はないのだ。

笑い話で、あんなところへ行くんじゃなかったなどと言う事はあるだろうけれど、実はそんな事はないのだ。






「旅行」と「旅行記」は異なるもの。「旅行をする才能」と「旅行記を書く才能」も異なるもの。

だけど、旅行も旅行記も、旅行者と旅行記著者の感受性や才能によるという点では同じ。でも、表現の仕方が違うのだ。

美しい海沿いの高級ホテルに泊まりずっとまったり浜辺で過ごす旅行なんて、とっても憧れる。だけど、旅行記に何を書くのだ。






旅行記が旅行記であるためには、旅行をしなければならない。

これは、旅行に行っても旅行をする必要はなくただ浜辺で寝ていてもいいということとは対照的な義務。

旅行記を書くのなら、それなりの経験をしてこなければならない。そしてそれらは、ちゃんと一つの「物語」となっていなければいけない。ツアーを申し込んで誰かに連れて行ってもらっているのではなく、自分の物語となっていなければならない。






私は、旅行記著者だけど、旅行者なのだ。だからまず第一に、自分の旅行を大事にする。旅行者として。だって、海外に行くのが楽しみだし、解放されるし、自分らしくいられるもの。

だけど、今の私は、その裏で、著者としての目で我が旅行を見ている。旅行中も、本当なら腹の立つ場面でも、どうしても、「これは旅行記では楽しくなるな」と思っている私がいる。




でも一旦旅行を終えて帰宅した後は、私はもう、「著者」でしかない。そして、旅行をするよりもはるかに難しい、「芸術の世界」に入る。たった数日の旅行を書くために数十日を費やし、「著者」は、「旅行」というものを、「文章」を使って「芸術作品」にする。

エジプト旅行記は、合計約17万文字になった。

ついでに、「情報配信者」としての責任があるため、1000枚を超える写真を縮小するだけでなく、全てチェックして顔や車のナンバーがあればモザイクをかけるという細かい作業もしなければならない。分かりやすくするためや場所の特定のために地図を入れたり、貼り付けるためのリンクを探したり、旅行だけをする旅行者であれば全く不要だった作業を山ほどこなすことになる。

旅行者が著者の目を持って旅行をした後は、著者が著者としての責任を持って旅行記を書き、そのために、空想の中でもう一度旅行をするのだ。そして、読者にも一緒に空想の旅行をしてもらう。






ただ寒いと言うだけではダメで、どのぐらい寒いかを簡単に想像できるように表現し、「この人は寒いんだ」を感じてもらえれば、なぜブランケットに拘り、どれほど暖房が欲しかったかもすんなり入って行き、「この人はカレンダーを作りたいのか」という事が分かれば、いつの間にか、ピラミッドの写真がカレンダーに向いているかどうか、自分でもそんな目で見ていき、散々とただの石の塊だの食パンだのと言われたら、そんな気もしてくる。

私は私の写真を使っているので、文章も写真も作者が自分なので、そのコラボレーションがピッタリ合う。写真がある上、文章に力があると、そっちに持って行ってしまう。

だからこそ私は、その国へ行きたくなくなるような書き方をしない上で事実を書いていく事に拘っていた。マレーシア記で悩んだけれど、今思えば、あの程度で悩むなど甘かったなと思う。






今回はマレーシア記とは違い、おそらく、大抵の人が行きたくないと思ったと思う。つまりは、大抵の人を行きたくないと思わせる旅行記を書いたと思う。私もその覚悟で書いていた。

だけど、それとは別物で、旅行記としては、相当点数が高いものに仕上がったと思う。行った範囲が狭いので、未来の旅行者が情報収集をするための旅行記としては情報が少ないと思うけど、物語の旅行記としては、かなり異色で読み応えのあるものが書けたと思う。

それができたのは、毎日ホテルで苦労させられたお陰であり、あまりに期待外れだった世界遺産のお陰でもあり、最後の佳境での上がり具合と下がり具合が見事だったお陰だと思うし、そんな経験をくれた旅行だったからこそ旅行記が波だらけになれたのだ。

波のない海が退屈なように、波のない旅も退屈であり、波のない旅行記もまた退屈だ。




著者ではなく、旅行者としても、実は、かなり高得点の旅行だった。私の旅行には毎回使命があると思っており、私は旅行と共に成長していくのだ。

今回のお題は、「自分が間違ったと思った時、どうするか」、「今しかないチャンスをきちんとつかめるか」、そして、「ゴキブリ人間になれるのか」という感じだったと思う。

時が過ぎてできるのは謝罪ではなく言い訳だけど、遥か彼方の相手には、言い訳すら言いに行けない。




人を傷つけるのも愛するのも、人間のやる事。

人に嫌われる人生を選んだ私に、鬼になる事を選んだ私に、それが必要のない場面では自分らしく生きて大丈夫なのだと、確認させてくれたのだと思う。

生まれて初めて着いてすぐ出ようと思った国で、他ではやった事のないような間違いをして、それでも自分らしく生きられるかどうか、試されたのだと思う。

最悪の中にある最高を見分けられるかどうか、試されたのだと思う。






行くんじゃなかったなと思った国で、美しい人たちに会った事で、そして、自分の間違いをきちんと謝りに行けた事で、この旅行は、私の中で、とても美しいものに変わった。

だから旅行者としての旅行も高得点になったのだ。

ブラウスの背中がほころんでいなかったら、普通に買い物をして、普通に終わっていた。彼女たちが美しい事すら知る事もなかった。




後ろから見たら、「あれ?」と思う人もいるかもしれないけどね。

もしも海外でパーティーに呼ばれたり、素敵な場所へ食事に行くような事があれば、堂々と着て行こうと思います。















愛しいほころび跡のあるこのブラウスを。






いつか必ず、このブラウスを着た旅行の旅行記を書くんだ。

素敵なパーティーに行った旅行記をね。








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-エジプトピラミッド切れ気味一人旅

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